もやもや会議

答えがすぐ出る時代だから… 「もやもや会議」の魅力

2026.05.18

2026 5 月号

「うまく言えないんですけど……」
「なんて言ったらいいんでしょうね……」
最近、会議でも、有名人のインタビューでも、こういう言い出しを以前よりよく聞く気がする。少し前までは、こういう話し方はあまり歓迎されなかった気がする。
考えは整理してから話すべきだ。結論から言うべきだ。まとまっていない話を持ち込むのは相手の時間を奪う。そういう空気があったと思う。

けれど最近は、まとまる前に話すこと自体に意味があるように思える。
誰かに向かって言葉を差し出し、その反応を見ながら、自分が何に引っかかっていたのかを少しずつ見つけていく。完成した意見を伝えるというより、まだ輪郭のない違和感を一緒に掘り起こしていく。
そんな「壁打ち」の需要が、前より高まっているのではないだろうか。なぜ、そうなったのだろう。

「答え」はすぐ出る。だから残るものがある

いまの私たちは、疑問に対する答えをすぐ手に入れられる環境にいる。検索すれば情報は並ぶし、生成AIに聞けば、もっともらしい答えが数秒で返ってくる。たとえば「転職 年収アップ 方法」と入力すれば、やるべきことはすぐ一覧になる。スキルの棚卸し。市場価値の確認。エージェント活用。面接対策。便利だし、実際かなり役に立つ。

でも、答えが速く出るようになったぶん、そこからこぼれ落ちるものがある。自分のなかに残る、答えでは片付かない何かだ。キャリアアップのための正解はわかった。でも、なぜか踏み切れない。会議であの人に言われた一言が引っかかった。でも、何がそんなに嫌だったのか、うまく説明できない。悩みと呼ぶほど大げさではない。ただ、確かにモヤっとする。こうした「名前のつかない引っかかり」が増えているのは、情報が足りないからではない。むしろ逆で、答えが速く出すぎるからじゃないか。

答えの出る問いは、検索やAIがかなりの精度で処理してくれる。けれど、答えにたどり着く前のざらつきや、言葉になる寸前の違和感は、どこにも引き取られない。その部分だけが残る。料理でいえば、レシピはすぐ出る。でも「いま自分は、本当は何が食べたいのか」は、レシピ検索だけではわからない。私たちが誰かと話したいのは、たぶんそこなのだ。

「主張」より「引っかかり」を共有したい

SNSでも、「これって自分だけですか?」という書き出しに、人が集まりやすい。あれは完成された主張だからではない。まだ名前のない感情が、ぽんと置かれているからだ。「私はこう考えます」と言われると、読む側は賛成か反対かを迫られる。でも「なんかこれ、引っかかるんですよね」と言われると、その場に留まることができる。自分も少し似た違和感を持っていたことを思い出す。「ああ、それ、自分だけじゃなかったんだ」となる。

いま人が求めているのは、同じ意見かどうかより、同じ引っかかりを持てるかどうか、なのかもしれない。きれいに一致する見解よりも、「それ、なんかわかる」という手触り。正しさより、引っかかりの質感が近いこと。生活総研は、生活者の意識や好み、価値観などにおいて、年齢差が小さくなっている状況を「消齢化」と呼んでいる。確かにいま、一緒にいたい相手は、年齢が近い人や属性が似ている人とは限らない。むしろ、「そのモヤモヤの感じ、わかる」と言ってくれる人のほうが、ずっと近く感じることがある。

「うまく言えない」が増えたのは、退化ではない

「うまく言えないんですけど」が増えたのは、みんなの話し方が下手になったからではない。むしろ逆で、答えが出る部分を外部に預けられるようになったからこそ、自分のなかに残った「答えの出ない部分」に、前より正直になったのではないか。以前は、結論に整えてから出すことが正しく、整っていないものは、ノイズとして扱われやすかった。

でもいまは、整った答えだけならAIでも検索でも出せる。だからこそ、人間が持ち込む価値が、答えそのものから、答えの手前に移り始めている。うまく言えないこと。まだ意味づけできていない違和感。話しながらやっと輪郭が見えてくる感情。そういうものを、急いで結論にしないまま差し出せること。それができる人間関係。そこに、以前より大きな意味や価値が生まれている。

人と会う理由も、話す理由も、少しずつそこへ移っているのかもしれない。「結論があるから話す」のではなく、「結論以外の部分を、話したい」。私たちはいま、そんなふうにしてモヤモヤを持ち寄る時代に入りつつある。そして案外、そのモヤモヤの中にこそ、次に考えるべきことの大切な種がいちばん多く眠っているのではないだろうか。

ということを、誰にも話せずモヤモヤと思っています。