有識者インタビュー
自分が没頭できる ものを見つけて、 日常や他者と 向きあう心の準備をしよう
京都市立芸術大学
美術学部デザイン科講師
哲学者
谷川 嘉浩氏
哲学者ではあるが哲学に限らず、メディア論や社会学など他分野の研究領域をこえて活躍。デザインの実技教育にかかわるだけでなく、ビジネスとの協働も実践。アニメ、ゲーム、映画、などコンテンツやメディアにも造詣が深い。著書に『信仰と想像力の哲学』(勁草書房、2021年)、『スマホ時代の哲学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2022年)ほか多数。
●「中間集団」が弱体化―寄る辺がなくなってしまう「個」
博報堂生活総合研究所(以下H)
「個の時代」ともいわれていますが、先生はどのように捉えていらっしゃいますか。
自分の比較や判断の参照先となる集団を「準拠集団」と呼びます。特に、自分のことを考えるときに判断の起点となる人たちのことですね。
多くの場合、会社や学校、サークルのような中間集団が「準拠集団」としての主たる選択肢になっていました。しかし中間集団の集団としての結合力が弱くなった結果、皆が共有できるような明確な準拠集団が成立しづらくなった。すると、個人が自分の欲求を形成し、生活の選択をしていくときの明確なロールモデルが見えにくくなるわけですね。
「こうあるべき」が減っていて生き方が自動的に決まらないということなので、おのずと選択肢が広がり、多様な価値が認められる。だから、これは基本的に良いことです。
しかし、何にもとづいて生きればいいのか見えづらいということでもある。先行きが見えなくても人生は続くから、行動や暮らしの参考になる人が見つからないまま、生き方を決断し、暮らさないといけない。だから、この参照先のなさは、寄る辺なさの感覚にもつながっています。「個の時代」は、不透明な時代でもありますね。
●バラバラの個人が、「交換可能な他者」に出会う環境におかれてしまう
H 個人の準拠集団が見えづらい状況で、いきなり大きな社会に接続するとどうなるのでしょうか。
「交換可能な他者に出会う」ということだと思います。
従来の中間集団には流動性が低いものが多く、基本的にメンバーの交換が利かない。今でも多くの中小企業や田舎の学校・企業などは離脱が比較的難しいし、交換困難な関係の上に成り立っています。しかし、そういうものと、スマホやパソコンをベースにしたコミュニケーションは根本的に違う。
「クリスマスまでに恋人が欲しい」「今寂しいから誰かとつながりたい」「適職率8割の会社はどこだろう」といった発想は、交換可能性が高い。相手は、誰でもいいし、何でもいい。
ハロウィンでわーって盛り上がるとき傍にいる人も、クリスマスまでに欲しい恋人も、別に誰でもいいし、適性診断の結果がほぼ一緒ならどの企業でもいい。こういうとき、相手の「顔」が見えていないんですね。
●日常のリアリティが失われていく
交換可能な何かや誰かとつながるとき、自分自身も「誰でもいい人」になることに注意が必要です。それに慣れると、体験や判断、理解が、単純な記号の組みあわせになってしまいやすい。SNSで誰でも反応でき、したがって共感を誘いやすいのは、大げさで演技的な言葉遣いや、類型的なイメージだからです。
そうすると、ネットにシェアするまでもないどうでもいいこと、些細な変化や気づき、何となく印象に残った景色や言葉など、地べたの日常の質感から遠ざかっていく。でも、こういうバズらないし、オチもない日常が私たちの本分ですよね。
●失敗を許容する日常を取り戻す
かつては子どもが家で失敗をしても「今はいいけど外では気いつけや」と言われたでしょう。企業でも新人を受け入れたら、失敗を許容しながら一緒に試行錯誤する場所や時間があったはずです。つまり、中間集団は、実験的な試行錯誤を支える側面があったし、大げさでない日常の感覚がそこで育まれることもあったでしょう。
ところが、今や中間集団が弱り、バラバラの個しかいないSNSに接続している。SNSでは誰かの失敗を見守り、実験をサポートすることもない。失敗や試行錯誤はネットにシェアするまでもないものの最たるものなんですよ。失敗を恐れるマインドには、こういう事情があるんでしょうね。
●自分が没頭できるものを見つけて、日常や他者に触れる練習をしよう
個しかいない群れは、互いを交換可能な一要素として扱います。交換可能性が高まると、反転して、運命や宿命への憧れが強まることがあります。アニメやドラマ、音楽、スピリチュアル、政治、自己啓発、セミナー、推し文化など、あらゆるところに運命論的な言葉遣いがあります。「私はこれと出会うべくして出会った」と言いたくなるのは、互いを普段は交換可能なものとして扱っていることの証左なんですよね。
だから、誰でもいいからと選び選ばれるノリから一旦離れるために、ありふれた日常の替えの利かない手触りを思い出す必要があります。些細なことをまなざすための視力を回復しないといけない。
イエズス会をつくった、17世紀の神学者のイグナチオ・デ・ロヨラが参考になるかもしれません。彼の言葉で、「霊操」というものがあります。日々身体を鍛えるのが「体操」であるのに対して、健全な心の習慣を持つために、心を鍛えるエクササイズに取り組むのが「霊操」です。「霊」は心とか精神のことですから。霊操のエクササイズには、沈黙とともに考える「メディテーション(瞑想・黙考)」や、真理を認識する「リフレクション(反省・省察)」も含まれていました。
もちろん、元々は宗教的な文脈の言葉です。神を理解し、神とともに生きるのにふさわしい心の習慣をつくっていくエクササイズです。でも、この言葉を私たちは非宗教的な仕方で理解しても構いません。
「霊操」は、トレンド、世間の動向、名誉や評判、資産などには囚われません。むしろ、霊操は、そうしたものから距離をとって、大事なことに徹底して集中し、孤独に向きあうためのツールとして開発されているのだと再解釈できます。
少し発想を飛ばすと、何かに没頭することは、他者と安易につながらず、手触りのある日常や関係性に係留する心の習慣を育むのに役立つかもしれないということまでいえるでしょう。
アイドルや配信者に入れあげて膨大にお金をつぎ込むとか、不祥事を起こした有名人に非難のコメントをしまくるというように、人が介在する活動に没頭すると厄介なことになるので、私としては人が介在しない活動に没頭することを勧めます。植物を育てるとか、ものづくりをするとか。
●RPGのような、ラクなレベルアップの手段はない。地道な努力あるのみ
H 「ひとり」につきまとう寂しさや不安を払拭して、豊かな「ひとり」になるための画期的な方法はないのでしょうか。
近代人である以上、地縁的・血縁的な共同体から多かれ少なかれ離れているので、共同体や価値観、家族なども「選択」の対象です。そうすると、全部横並びで比較するから、「交換可能性」の考えにたやすく転ぶ条件は整っているわけですね。近代社会は簡単に終わらないし、人の価値観はすぐに変わらないので、この構図は、短くとも百年くらいはひっくり返らないでしょう。
身体の運動(体操)が一日二日の問題ではないように、心の運動(霊操)も一生ものです。豊かな「ひとり」でいるための練習は、ずっと続くものです。「一年間筋トレすればもう一生何もしなくていいです」と言う人がいたら変ですよね。心も同じです。結局、地道な努力しかない。
RPGのように、一回レベルが上がったら下がらないような世界ではない。不安や寂しさとのつきあい方に、「あがり」はないし、コスパのいい方法もない。
でも、それはしんどいことではなく、何かに没頭する時間を持ち、手触りある日常の感覚を味わう孤独を持つことで、自然に達成できるものだと思います。『スマホ時代の哲学』という本では、そういう期待を込めて「趣味を持とう」と言いました。
「孤独」と「孤立」は、
分けて考える必要があります。
「孤独」は幸福度を下げますが、 「孤立」は幸福度を下げない
という研究があります。
慶應義塾大学大学院
システムデザイン・マネジメント研究科教授
前野隆司さん