第42回
震災の記憶、どう保存する?
from 福島県
■あの日、あの時
みなさんは、2011年3月11日2時46分、どこで何をしていましたか?
私は、郡山にあったオフィスの18階で打合せをしていました。まるで遊園地のバイキングに乗せられているような、ビルが折れるんじゃないかと思うほどの恐ろしい揺れでした。なのに、その最中私は、キャビネの上に鎮座していた神棚が落ちそうになっているのに気づき、それをキャッチしようとデスクとデスクを手すり代わりにしながら移動していました。いま考えたら、あの揺れの最中、よく移動できたなと思いますし、机の下に隠れているのが普通だろ!と過去の自分をしかりつけたいところです(神様は救いました)。そして、数日後、原発が水素爆発を起こして、福島(いや日本)は、混乱の中へ…。
あれから11年が経ち、時とともに震災の記憶は少しづつ薄れの世の中の最大の関心事は他の事柄へと移りつつある印象があります。それは、復興が進んだ証拠としてプラスに捉えることもできますが、自然災害が日本各地で起きているいまだからこそ、3.11の記憶や教訓をあらためて後世につないでいくべきだと考えました。
そこでまず、被災地では3.11の記憶をどのように伝えているのか、伝承施設を見学してみることに。震災遺構浪江町立請戸小学校と、双葉町に2020年にオープンした東日本大震災・原子力災害伝承館を訪問しました。
■犠牲者ゼロ。傷だらけの小学校
震災の記憶をアーカイブしている施設を訪れるのは初めてでしたし、原発避難区域だった浪江や双葉に立ち入るのは11年振りで、少し緊張しながら現地に向かいました。
請戸小学校は、海と目と鼻の先にある更地の中にポツンと立っていました。さっそく小学校の中に入ってみると、1階の各教室は、床や壁などあらゆるものがえぐり取られ、配線や鉄骨があらわになっていました。その日は平日ということもあり、見学者は私ひとり。目の前の事実がダイレクトに自分に迫ってくる感じがありました。
見学ルートの合間合間に、請戸小の生徒たちの経験が絵本として展開されていて、児童と教職員の全員が無事だったことがわかりました。(誰ひとりとして犠牲にならず、本当によかった)
見学を終えて思ったのは、「これは体験に等しい」ということでした。ここを津波が通過したという事実を目にすることで、その脅威を想像以上に感じることができました。
■複合災害の記憶を未来につなぐ
続いて、2020年に福島県双葉町にオープンした東日本大震災・原子力災害伝承館へ向かいました。この伝承館が他と違うのは、複合災害をテーマにしている点です。地震、津波、そして原発事故が合わさった世界でも類をみない災害が福島県民の生活にどういう影響を及ぼしたのか。実物の資料や被災者の証言映像、語り部、フィールドワークなど様々な展示やプログラムによって知ることができます。生まれ育った故郷から断腸の想いで離れなければならなかった人々の苦悩。住民の暮らしを守るために奮闘した行政の歩み。廃炉のステータスにいたるまで包み隠すことなく展示されています。
ここでは、副館長の小林さんにお話しを伺うことができました。
小林さんが繰り返しおっしゃっていたことは、市町村単位におよんだ避難の過酷さ、その後の風評被害や除染、廃炉など福島が東日本大震災と原子力災害にどう向き合ってきたか(向き合っているか)、記録と記憶を正しく後世に伝えることで、このようなことが二度と起きないように原子力防災につなげていくこと。また、毎年のように発生する(?)大きな災害を、決して他人事ではなく自分事としてとらえてほしい、ということでした。その話の中で、印象的だったエピソードが二つほどありましたのでご紹介したいと思います。
■記憶は変わる、付け足せる
ひとつは、リピーターの方の話。10回以上、伝承館を訪れている方がいらっしゃり、その方は、自分だけでなく色々な知人を連れてきて展示を見ながら震災について話をしているそうです。自分以外の人の意見や視点を取り入れることで自分の中の震災の記憶を整理しているらしいのですが、小林さんによると、原爆の記憶を伝えている広島、長崎の語り部の方の中にも時とともに、話す内容が変わってきている人もいるとのこと。それは、経験したことへの捉え方が、環境や時代とともに変化する場合があることの表れ。震災の記憶は流動的であり、記憶は自分の中で同じ状態で保存され続けるわけではないという気づきがありました。
そしてもう一つは、避難解除の話。福島は、度々チェルノブイリと比較されることがあるそうなのですが、それと決定的に違うのは、一度立ち入りができなくなった土地に住民が戻ってきていること。原子力災害で避難先から住民が戻るのは世界で初めてのケースであり、そのプロセスをアーカイブして情報収集・発信していくことが私たちの使命だとおっしゃっていました。つまりそれは、震災は進行形であるということ。伝承していくべき記録や記憶が、増え続けているのです。
震災遺構や伝承館を見学したり小林さんのお話を伺って思ったのは、震災の記憶には保存の仕方が2つあるということ。一つは新規保存。二つ目は上書き保存です。
新規保存は、経験していない人に地震や津波、原子力災害の脅威をリアリティを持って感じてもらうこと。そして上書き保存は、震災を経験した人が、自分の知らない震災について情報に触れることで、情報を付け加えたり、捉え方を変えたりしながら記憶を保ち続けること。伝承というと、前者のように体験していない人にいかに震災を伝えるかということ(新規保存)に目が向きがちですが、経験したからこそ、当時と今とで、捉え方や想いにどんな変化があるか記憶を点検したり、自分が経験していない震災の情報に触れることで記憶を拡張させたりすること(上書き保存)も、記憶をつなぐという意味において、ともて重要な行為であるように思いました。現に、伝承館自体が上書き保存をしつづけています。
震災は思い出したくない過去という方もいらっしゃいます。しかし、震災の記憶を残し、伝えることで、救われる命があると思いますし、これからの自分や地域をどうつくるべきか、ひとつの指針にすることもできます。あれから何年ということではなく、あの時何があって、今をどうするか。なかなか遠出することがはばかられるご時世ではありますが、ぜひ、被災地にある伝承館に足を運んで、考えてみてはいかがでしょうか。
■震災を知ると、やさしくなれる?
最後に、小林さんが、こんなことをおっしゃっていました。
コロナ禍という状況だからこそ、複合災害の経験を活かさなければいけないと考えています。ウイルスは目に見えません。目に見えないことで不安になったり疑心暗鬼になったり社会にひずみが生まれやすい。放射能も目に見えなかったために、福島県民への偏見がひろがってしまいました。その経験もあり、私たちは新型コロナウイルス感染拡大地域からのお客さまをお断りしたり、ご遠慮いただいたりするようなことは一切しませんでした。福島県民がされたこと(偏見や差別)を、やってはいけない。あの時の記憶や感情を忘れずに持っていたからこそ、このような判断ができたのではないかと思います、と。
災害の記憶は「痛みの記憶」でもあります。もし、痛みを知ることが他者に対するやさしさや寛容性を持つことにつながるのだとしたら。震災を知ることは、防災だけでなく、他者を思いやるきっかけにもできるのではないか。そんな風に、震災の記憶を保存することの可能性を、大いに感じることができた取材となりました。