AIの出した「答え」に従うことの、
2つの弊害
普段は意識しませんが、「努力」と「目標/向上」とはセットの概念です。ですから「なんの目標も成長も目指してないけど、努力しています」といった言い方はしないわけですよね。
自分自身が何に向いていて、どういう特性があって、どのような努力をすると能力が伸ばせるかという答えはテクノロジーが進めばこれからもっとわかっていくでしょうし、実際に個別化して人に当てはめていくことも可能だと思います。
一方で、そうして得られた能力を社会でうまく使えるかというと、私には難しいように思えます。
そのひとつの理由は、問いに対し最適な答えを出すような能力は常に機械との競争になるからです。暗算能力は電卓の登場で重視されにくくなりました。同じように何かに答えを出すことは突き詰めれば最適化ということなので、機械が得意とすることです。
もうひとつの理由は、人格的な成長と能力面の成長とは違うからです。
スポーツの世界では、昔と比べて今は選手をとりまくチームが大きくなっています。昔はせいぜいコーチがいるくらいでしたが、今は栄養士、ストレングストレーナー、メンタルトレーナー、マネージャーといった人びとがひとつのチームを形成しています。
これは、昔と比べて選手がいろいろなものを「専門家に外注している」ということでもありますが、その結果全体像を把握している選手は少なくなりました。
昔の選手は自分自身で全体をマネージせざるを得なかったので、そこから普遍的な「人間とは何か」といったことを考えがちでしたから、インタビューでも哲学的なことを言っていました。
一方、今の選手にインタビューをすると、極端な選手は「私はプレイする事が仕事なので理屈はコーチやトレーナーに聞いてください。」と答える選手もいます。選手は泳ぐなら泳ぐ、走るなら走ることだけに努力を先鋭化させ、それ以外のことはその道の専門家に外注しているからです。
そのおかげで、昔に比べると効率良く競技能力が向上していくのですが、一方で今の選手は以前とは違い、喩えるなら「動く歩道」に乗っかっている状態です。自分の外部に成長システムが出来てしまっていて、そこで決められたことにひたすら集中したら20歳くらいで世界一になったけれど、どうしてこれを食べるのか、どうしてこの練習をやるのかを本人はよくわかってない。
昔と比べると圧倒的に効率良く、正確な練習ができるので競技力は高くなっているのですが、その分人格的成長と競技的成長が著しくずれてしまったことが、最近の選手がメンタルバランスを崩している理由だと私は考えています。
AIからのレコメンドを試して、
自分の人生に「納得」する
現代の社会では、すべての目標を自分自身で決定し、努力することになっていますが、それに代わって将来AIが人の適性を評価・コーチングするようになるなら、自己決定に代わって「納得」が重要になると思います。
例えば、私自身の買い物のプロセスを思い描いてみると、自分から探しにいくこともある一方で、ECサイトから「これどうですか?」とレコメンドされたものを買うこともあります。今ではオンラインの購買活動の3分の1がそうなっていますが、その3分の1の購買活動でやっていることは、自分で探す代わりに、提案に対して「自分が納得しているか」によって購入するかどうか決めることにほかなりません。
同じように、何も情報がない中から人生の目標を探すのではなくて、AIが提案した「自分に合った選択肢」の中から決める社会になったとき、我々は人生を通して「どの選択なら自分は納得でき、「自分の生を生きてる」と感じることができるのか」を問い続けるようになるのでしょう。
この「どの選択なら自分は納得して生きていけるだろう」というのは難しい問いかけですね。「あなたにとって経済的合理性があるのはこの選択肢です」「社会的地位が一番高くなるのはこの選択肢です」というランク付けをAIができたとして、そのまま従うことに果たして我々は納得できるのか。あるいは、もしAIが「残念ながらあなたには社会的に成功する能力はありません」と判断したとして、それに納得できるのかというと、きっとできないと思います。なぜならば納得とは自分自身が悩み困難にぶつかる中で見つける軸と照らし合わせて得るものだからです。
ですから、AIからレコメンドされた選択肢を鵜呑みにするのではなく、提示された選択肢をまず自分自身で体験してみる。その上で納得できれば続けてみて、納得できなければ次の選択肢を試してみる。
この行き来を通じて自分の目標、ひいては人生を選んでいく形になるのではないでしょうか。
できることと、知っていることの差は
「身体的な習得」のこと
昔は職業がある程度固定化されていましたし、転職も少なかったですから、自分が努力すればいい領域はわかりやすかった。しかし現代では、例えばITが専門でなくてもビジネスにDX(デジタルトランスフォーメーション)が不可欠になるなど、必要とされるスキルや知識の範囲がどんどん拡張しています。この結果、それらをすべて身につけようとすると、どれをどう習得すればいいのかよくわからないような状況が生まれています。
そこで「できることと知っていることの違い」を考えてみると、できることは「身体的に習得したもの」であり、知っているものは「体験は無くても知識はあるもの」ということになります。水泳の本を読めば泳ぎの技術の知識は手に入りますが、泳げるかどうかは水に入ってみないとわかりません。
人間はどんどん知識を入れていけば賢くなるのだとは、私は思いません。
例えば子どもの頃イヌが歩いているのを見て、親から「ほら、ワンワンだよ」と教えてもらうと、子どもは「これがワンワンか」と思いますね。次に子どもは目の前に来た「ふわふわした四本足の生き物」を見て、「あ、ワンワンだ」と言うわけですが、親から「それはニャンニャンだ」と訂正されます。この瞬間子どもの中で、「ワンワンとニャンニャンの違いは何か」という推論がはじまります。「どうも、耳の形でワンワンとニャンニャンを分けているらしい」といった思考からはじまり、次第に犬と猫を分けられるようになる。
人間が本当の意味で賢くなり、世の中を理解していくためには、世界を立体的に体験し、誰かと対話をしながらこのような推論が繰り返されることが必要なのであって、知識だけを渡されたところで人は賢くはなりません。
「魅力」が評価される社会に
回帰していく
そうなると将来重要になる能力はなんだろう、と考えたときに興味深いのは、最近は「SNSで人気者になる」ことが、例えば「いい大学に入る」ことと同程度に羨望されていることです。
どこかの大学に入ることは知識やある種の賢さの成果ですが、SNSで人気者になることは「魅力」のバロメータです。「何が魅力的か」の基準は時代とともに揺らぐので、数値化しにくい。しかし、測りがたいものの方が人間の能力として希少であり、だからこそ「もっと魅力的になりたい」のような漠然とした目標がみんなの欲望になってきているのです。
「何かが効率良くできる人」は便利な人ではあるけれど、魅力的かどうかとは実は関係がない。そうではなく、いろんな痛みを経験したり、どたばたしながら世界を立体的に体験して、自分の人生に納得していく。
そうやって味わい深い人生を生きた人にこそ魅力が出るのであって、そして魅力がある人を人は好きになるのだと思います。
そういう人間らしい魅力がある人がSNSの評価を受けたり、「この人と仕事がしたい」と誘われるような、「魅力」が重要な社会に回帰していくだろうと思います。だって人間ですから魅力的な人と仕事をしたいじゃないですか。
為末大(ためすえだい)1978年広島県生まれ。スプリント種目の世界大会で日本人として初めてメダルを獲得。3度のオリンピックに出場。男子400メートルハードルの日本記録保持者(2021年4月現在)。現在はSports×Technologyに関するプロジェクトを行う株式会社Deportare Partners(http://www.deportarepartners.tokyo/)の代表、「アスリートが社会に貢献する」ことをめざす一般社団法人アスリートソサエティ(http://www.athletesociety.org/)の代表理事、新豊洲Brilliaランニングスタジアム(http://running-stadium.tokyo/)の館長を務める。主な著書に『走る哲学』(扶桑社、2012年)、『諦める力』(プレジデント社、2013年)など。