有識者インタビュー

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ロボットは
「人をより人らしく」する
存在になり得る

力石 武信

ロボティシスト、ロボット研究者

「人をより人らしくする」
ロボットを目指して

当初僕は工学の視点からロボットを研究していましたが、演出家の平田オリザさんの「ロボット演劇」に携わったらそれが面白くなってしまって、気が付いたら芸術の世界にどっぷり浸かっていました。最近は、例えば「元々動かない彫刻や工芸作品を動かしてやると、どうなるだろう?」という発想から、鍛金工芸の作家と共働でロボットをつくっています。

今の社会って、「こう動きなさい」と常に最適化を要求されていて、「まるで自分がロボットみたいだな」と感じることがありますよね。
最近は、例えば荷物や食事を配達する人たちが「AIの示したこのルートで配達しなさい」と言われるようになっています。そうすればたしかに効率的に動けるけれど、「本当に人間らしいか」という問いを置いてきてしまっているように思えます。
現在はまだ「配達ルート」のような比較的最適化しやすい分野に留まりますが、AIはどんどん進歩するので、いずれもっと多くの仕事や生活の「最適解」が提示されるようになるでしょう。ですからAIが賢くなって、買い物でも、仕事でも、恋愛でも、僕らに「最適な提案」をしてくれるようになった時に、僕たちは意思決定の基準をどこに置くべきかを考えなければなりません。
例えば、近い未来、AIの指示する通りに仕事をすれば、最も効率的にこなせるようになった時代になったとしたら、僕たちは本当に「自分自身が働いた」と世界に向かって言えるのか、もう少し慎重になった方がいいと思います。
現在でも、よく「あの人は、ロボットのようだ」という比喩を聞きます。褒め言葉と悪口の両方の場合があって、褒め言葉としては「正確に仕事のできる人」という意味ですし、悪口としては「冷徹な感情のない人」という意味かと思います。
そういった揺れや迷いが「人間らしさ」なのだと僕は思いたい。世の中が「アート思考」みたいなことを言いはじめたのも、「最適化されている世界」の先を見ないと、いずれ人間も変化に適応できずに、恐竜のように絶滅していくのだと気づいた人が増えてきた表れでしょう。
僕はロボットに、人の中に交わり、交わった人の人生を変えるものであってほしい、そして「人をより人らしくする」ものであってほしいと願っています。

「心のありか」は人の想像の産物

コンピューターにはまだ「心をつくる」ことはできません。しかし、人が見て「そこに心がある」と思えるようなロボットをつくることならできます。
なぜかと言うと、「そこに心がある」と想像するのは、ほかでもない人間だからです。
阪大にいた頃、「ワカマル」というロボットを廃棄物置き場に10台ぐらい並べて捨てたことがありました。それを学生さんが写真に撮ってツイートしたらバズっちゃって、「なんて可哀想なことをするんだ」みたいなメールが研究室にがんがん来ちゃいました。
その頃はまだアートの世界に入る前でロボットのことをドライに見ていたので、パソコンと同じ感覚で捨てたんですけど、みんなはそうじゃなかったんですね。普段からロボットに接してるが故に、当時の自分がロボットに感情を持っていなかったことに気づけました。
似たような話ですが、AIBOが販売中止になっていた時期に、動かなくなったAIBOの供養をやっている人たちがいましたよね。それをヨーロッパの人が取材して「日本らしくて面白い」と言っていたそうです。ヨーロッパは「心と体は別だ」と考える文化ですが、日本人は「心は体に宿っている」と感じている。
ロボットのボディだけがあるだけでそこに心があるように感じるのは、日本人の文化なのかもしれません。水田を管理するために村人総出で働かなければならなかった日本人が培った、「一緒に働くものは仲間だ」という仲間意識が、ロボットの身体にも投影されているようにも感じます。だから日本の工場で、導入した工業ロボットに名前をつけて、「タロウが調子悪いから、直して(治して)やろう」みたいに言っているのを、やはりヨーロッパの人が見てびっくりしたと聞いたことがあります。
このように、「心のありか」とは結局のところ文化に依存するものだし、僕らが「そこに心がある」と想像していることの産物なんです。

ロボット演劇「さようなら」に出演したアンドロイドと力石先生

ロボットが「愛」を補完する

平田オリザさんの「ロボット演劇」に携わって面白かったことがあって、平田さんは俳優に悲しそうな演技をさせたいときに「もっと悲しい顔をして」のような指示を出さないで、その代わりに「下を向いて、3秒黙ってフっと笑って」みたいに指示するんですね。それだけで「この人、すごく傷ついたんだ」みたいな内面が観客に伝わるんです。
僕たちの日常でも、店員さんが「いらっしゃいませ」と言う時、心から笑っているかというと、必ずしもそうでもないけれど、熟練した店員さんになるとお客さんをもてなす振る舞いを日々修練しているので、客の方も心からもてなしてもらっているように感じます。
これは俳優や演出家がやっているのと同じ技術であって、そういう技術がロボットに落とし込まれて世の中に広まっていくことはあり得ます。
人間が同じことをやると、感情労働と自分自身の心とが逆行した場合にすごくつらいこともありますが、そこをロボットに任せられることには恩恵があります。例えば怒りを鎮める接し方を入れ込んだロボットによって、誰も心を痛めずにクレーマーの人の心を穏やかにするようなこともできるはずです。
ほかにも、例えばヨーロッパに行くと街の中に物乞いの人がいて、黙って通り過ぎてしまうと後で心が痛んだりしますが、ロボットはそういった人に優しく語り掛けられる存在にもなれるでしょう。
硬貨1枚を物乞いの人にあげるのでも、「この人がいきなり殴りかかってきたらどうしよう」みたいなことまで考えに入れると善意を実行するハードルは高い。でもコミュニケーション・ロボットがその仲立ちをすれば、僕たちが善意を行うハードルを下げられる可能性があります。
このように僕はロボットを「自己がない故に、人類愛を補完してくれるもの」だと思っていて、だからこそロボットの研究をしています。

 

「人間の仕事」と「ロボットの仕事」

人間の仕事がすべてロボットに置き換わるかというと、そう単純な話でもありません。
例えば学校教育なら、人間としての本質的な価値観や思いやりは人間から学んでほしいと僕も思います。一方で、例えば英語の発音練習の練習台になってくれるような存在は、相手に心が無い方が恥ずかしくないのでロボットの方が適任でしょう。
僕たちが子どもの頃に学校生活で先生が担ったことを、丸ごとロボットに投げるのはダメだと思いますけれど、むしろロボットの方がうまくできる部分もあるのです。
介護の分野でも、患者さんの歩行訓練に一緒に付き添ったり、コミュニケーションをとってあげることは僕たち人間がやってあげた方が患者さんの幸福に役立つでしょうが、排せつ物の処理は当人からすると生身の人間にはやってほしくないでしょうから、ロボットがやる方が多分いいですよね。
ロボットに何かを任せることで、例えば介護する人とされる人がお互いもっと優しく接することができたなら、それは「ロボットが、人間をより人間らしくした」と考えていい。そのためにも、それぞれの分野でひとつひとつ丁寧に、人間が担う方がいい分野とロボットが担う方がいい分野を考えていきたいですね。

力石武信(ちからいし・たけのぶ) 大阪大学大学院 知能ロボット学研究室(石黒研究室)に在学中に2005年の愛知万博、アンドロイドの展示にて技術を担当。2010年には演出家・平田オリザ氏の率いる「ロボット演劇」に参加。2015年から東京藝術大学にてロボティクスとパフォーミングアートの融合研究に従事。工学とアートとの接点を探究するなかで令和工藝合同会社を設立。

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