最初にいきなりこんなことを言うのは水を差すようですが、「意識」と「実態」の間にはギャップがあるということを前提とした上で、この調査のデータを眺めた方がいいと思うんです。「仕事よりも家庭生活を第一に考える方だ」という項目ですが、回答がイエスだったとしても、そのような生活を送ることができるかは別問題です。また、「家庭」の定義って既婚者と独身者、子どものいる人といない人とでは意味合いが変わってきますし、「仕事」もそうですよね。その人が人生をかける「ライフワーク」をしているのか、それとも食べるためにやっている「ライスワーク」なのかで回答に込めた気持ちも違ってきます。 なので、これらのデータの背景にある生活者の実感に思いを巡らせながら、感じたことを述べていきますね。
経済格差によって二極化する学生たち
私は大学で教えているのですが、学生たちを見ていると、彼らの間に広がる格差を強く感じます。経済的に余裕のある学生と、奨学金やアルバイト漬けになっている学生とに二極化されていて、身も蓋もない言い方になりますが、教育にかけられる「お金」と「時間」の差が彼らを分断しているように思えます。 そこへコロナが拍車をかけました。それまでは、それでも挨拶くらいは交わしあう「ヨッ友」程度のつながりがあったのが、オンライン授業によってそういった交流すらもなくなり、孤立が深まりました。結果、より余裕のない学生がより苦しんでいるんです。だから「お金は命の次に大事なものだと思う」というデータの20代の上昇率は非常にうなずけます。
「社会的加齢」意識が消失しつつある
一方で、「いくつになっても恋愛をしていたい」と考える60代以上が以前より増えていたり、食の好みに年代差がなくなってきているのは興味深いですね。中高年の感覚が若者化しつつあるというか、様々な面(とりわけ性と食)で消齢化が進んでいるようです。
消齢化、すなわち人びとの年代ごとの差異が消えつつあるということは、加齢の概念が変わってきていることも意味します。加齢には3種類あります。「肉体的加齢」と「精神的加齢」と「社会的加齢」です。
「肉体的加齢」と「精神的加齢」に関しては、現代は医学の発展によって歳を取っても若々しく健康的でいられます。そうなると、精神的にも若いままでいられますよね。そして、このふたつ以上に大きいのが3つめの、社会における加齢意識の消失です。
かつては会社勤めの男性ならば「40代になったら課長くらいにはなれる」という青写真が描けていました。しかし、そんな年功序列社会は平成の30年間でかなり崩れました。年齢が上がれば上がるほど社会的地位も上がる、という社会ではなくなった現在は、言い換えれば、歳を取ったからといって必ずしも年長者然として振る舞わなくとも許される空気感があります。
若い頃と同じように恋愛をしてもいいし、煮魚よりもハンバーグの方が好きでいい。アニメを見ることやマンガを読むこと、アイドルのファンでいることから卒業しなくとも、何も言われなくなりました。これもまた「社会的加齢」の消失によって生まれた現在の中高年の姿です。
田原総一朗さんや矢沢永吉さんなど、80代や70代になっても現役バリバリの方たちが言論、エンタメ、政官財に学界と、あらゆる業界にいらっしゃいます。まさに人生100年時代。だけど上の世代が引退しないと新陳代謝が起こりづらいのも事実なので、下の世代が困ってしまう。経済界のトップから提唱された「45歳定年制」は、こうした現状を踏まえての発言だったのではないでしょうか。
〈節目〉がなくなり、
生き方も働き方も流動化
生活総研:常見先生のご専門である労働領域で、「社会的加齢」のあり方が変わるきっかけとなった出来事や年というのは思い当たりますか?
象徴的なのは1995年当時の日経連のレポート「新時代の日本的経営」です。この頃から会社の年頭挨拶、入社式などで、「会社人間は不要」と経営陣が宣言するようになりました。企業や雇用する側のシステムや概念が、95年を境に明らかに変わっていきました。さらに言うと「働き方改革」という、ふわっとしたワードです。「新時代の日本的経営」で、正社員像の見直しを図るという構造上の大変革が行われ、私たちの働き方も生き方も流動化せざるを得なくなったのです。
生活総研:ちなみに、「妻になっても母になっても女性であることを楽しむ」趣旨の主婦向けファッション誌『VERY』が創刊されたのが1995年です。2000年代に入ると、中年女性を「大人女子」と表すワードが頻繁に使われるようになりました。
社会全般が人びとに、加齢を意識させない方向へと向かっていますね。
今は結婚や、家庭を持つことに対する強制力が低くなりました。これくらいの年齢になったら結婚する、子どもをもうける、いついつまでに子育てを終える……といった、かつての時代にあった〈節目〉のようなものが消え、個人の生き方はかつてなく流動化しています。それは生きやすさがある反面、なかなか成熟しづらい社会でもあります。僕自身、現在48歳なのですが、若者気分が抜けません。おそらくこんな感じで50代、60代になっていく気がします。
さらに身も蓋もないことを言いますと、成果により収入が増減し、経済力のある側とない側の格差が大きくなっている状態では、こうなったらもうポジティブに“年収の上がらない”社会で充実して働く方法を考えるべきなのではないかと思います。
例えば、何かと不利な立場に置かれがちなフリーランスの人たちには、ビジネスの仕方やワークルールを学べる学校が必要ですし、会社員の場合なら入社数年目の年収のままであっても、配属された部署でスキルを磨き抜いて、なくてはならない社員になる、とか。これはこれで満足度があるんじゃないかな。いずれにせよ究極的には「働く幸せとはなんぞや」問題なんですね。
「小さな違い」を尊重しつつ
「大きな同じ」を確認する
「社会的加齢」が消えつつあるこの社会で、人びとの価値観を、年齢や世代によって区別するのはもはや難しいのではないでしょうか。
今回、このデータを拝見して率直に思ったことは、今、私たちに必要なのは、「大きな同じ」を確認することではないか……ということです。
では、「大きな同じ」はどういうところから生まれるのか。 年齢や社会的な立場といったものが絡まない場所、タテではなくナナメの関係性、あるいはハッシュタグ的なつながりから始まるような気がします。趣味の場とか、異業種同士の連帯とか。壁を越えて周りを巻き込み、かき回しつつそんな場をつくることのできるバウンダリースパナーはあらゆる分野にいますし、今、私が言ったようなことを、すでにいろんな人たちが実践しはじめているはず。クラウドファンディングなんてまさにそうですね。
個々人の間にある「小さな違い」を認めながら、手をつなぎあうポイントを見つける。私たちの誰もが共感できる象徴やシンボルというものは、生みだすのがとても難しいですし、危険をはらんでもいます。だからこそ、それぞれの人間が持つ「小さな違い」を尊重しあい「大きな同じ」を増やしていくことが、これからの社会で幸せに生きていくために大切なことなのだと思えます。
人とつながりあうための別の補助線が必要であり、その補助線、ないしはそのための大きなコンセプトづくりこそがメディアの役割ではないでしょうか。
ただ、どんな場であっても、発言をする人たちがいる一方で、サイレントマジョリティーも必ずいます。大学の授業でも、活発に意見を発表する学生がいれば、自分からは何も発言しない、できない学生もまたいます。授業がオンライン化してからは特に顕著です。
彼らとて意見がないわけではないのでしょうが、どのように発言すればいいのかわからないか、あるいは意見を言って叩かれるのを恐れているのかもしれません。今はSNSでそういうことが頻繁に起きていますから。
肝心なのは、どんな話題であれ、彼らが他人ごとではなく自分ごととして感じられるテーマに下ろして語ることなのだと思います。「若者は選挙へ行け」「政治にもっと関心を持て」と、やみくもに言っても伝わらない。例えば学費の無償化という点にスポットを当てて、「学費がタダになったらアルバイトはもうしなくていいし、もっと自分の時間が持てるよ。国会でそんな議論がなされてるんだけど……」というふうに語ったら、若い子たちはきっと政治に関心を持つはず。
若者の政治離れとよく言われますが、彼らに向けた言葉を上の世代が持っていないだけなんです。
若者に限らず、自分たちの生活と政治や社会はつながっていると意識したら、ものを見る目は変わります。私自身も生活者のひとりとして、この社会のなかでいかに幸せに充実して働き、生きていくことができるのか考えています。