「キモい」感情こそ愛おしい。
私たちが日々抱く無数の感情は、いったいどこへ消えていくのでしょうか。スマホを使ってSNSを覗いてみると、そこには共感を求める言葉や、誰かへ宛てたメッセージが氾濫しています。しかし、常に他者の視線が交錯する現代社会において、私たちが心の奥底に秘めている「本当の感情」は行き場を失い、かえって表に出さなくなっているのではないでしょうか。そんな「感情を出さない時代」を、博報堂生活総合研究所は「感情ミュート社会」と名づけました。
このような時代において、ご自身の内面と珍しい手法で対話をしているひとりの女性に出会いました。それは、20代のミカミさんが明かした、「架空の手紙」を綴るということです。彼女のエピソードを手がかりに、「心の奥底から湧き上がったありのままの感情を記した、誰の目にも触れない手紙」についてひもといてみたいと思います。
「キモい」からこそ愛おしい、感情の秘密基地
ミカミさんが綴る「架空の手紙」。それは、推しや意中の人への感情が溢れてどうしようもなくなったときに、その人へ宛てる「つもり」で書き連ねる手紙のことです。スマートフォンの画面に文字を打ち込むこともあれば、便箋に直接ペンを走らせることもあるそうですが、この手紙にはたったひとつ、絶対的なルールがあります。それは、「決して相手には送らない」ということです。
溢れんばかりの感情を言葉に託しながら、なぜ相手に届けようとはしないのでしょうか。その理由は、綴られる内容が、他者の目に触れれば「キモい」と呆れられてしまうかもしれないほどの高い熱量を帯びているからです。
例えば、彼女が熱烈に応援しているお笑い芸人への感情。ミカミさんは推し活専用のSNSアカウントも持っており、そこでは「好き」「かっこいい」「おもしろい」といった、本人に届いても喜ばれるような、明るくポジティブな感情を発信しています。しかし、「今日の二の腕がたまらなかった」といった、マニアックで深すぎる愛情の吐露は、本人や周囲を戸惑わせてしまう恐れがあります。だからこそ、そうした剥き出しの感情は決してSNSには放たず、「架空の手紙」の中にだけ、そっと綴るのです。
つまり、この手紙は単なる紙切れやデータではなく、純度100%の感情をそのまま受け入れてくれる、彼女にとっての「感情の秘密基地」なのです。
忘れたくない心の機微をつなぎとめる
現代を生きる私たちが言葉を紡ぐとき、そこには無意識のうちに「誰かに読まれること」や「共感されること」への期待が潜んでいるものです。しかし、彼女が綴る手紙の目的は、他者からの承認や共感を得ることではありません。それは、その瞬間にしか立ち現れない「自分だけの感情」を取りこぼすことなく、しっかりと書き留めておくことなのです。
ミカミさんはかつて、初めての恋人とカフェで待ち合わせをした際、「もうすぐ来るかな」「あ、来た」というリアルタイムの高揚感を、「日記」にも書き留めていたといいます。「こうした些細な心の揺れ動きは、放っておくと自分でもすぐに忘れてしまう」とミカミさんは語ります。滅多に味わえない貴重な感情だからこそ、後から読み返したときにそのときの「心の熱」を鮮明に思い出せるよう、ご自身の言葉でしっかりと繋ぎ止めていたのです。
私たちは旅行に出かければシャッターを切り、特別な出来事があれば動画を回します。そうして目に見える「出来事」や「景色」は、いとも簡単にデジタルデータとして保存できる時代になりました。しかし、内へと向かう心の機微は、文字にして繋ぎ止めておかなければ、いつの間にか自分でも思い出せなくなってしまうのです。
写真やレンズには決して映り込まない、微細な心の揺れ動き。それこそが、彼女が架空の手紙や日記という形を借りて手元に残したかったものなのです。
過去の自分と出会い直す「タイムカプセル」
こうして誰の目にも触れることなく書き溜められた「架空の手紙」や「日記」は、時を経て読み返したとき、いったいどのような思いをもたらすのでしょうか。
ミカミさんご自身も、後になって過去の架空の手紙を読み返した際、「めっちゃキモかった」と苦笑いされることがあるそうです。しかしそれと同時に、そこに並ぶ言葉たちを目にすることで、当時の熱を帯びた感情が鮮明に蘇るそうです。
それは、「このときこうだった」という単なる事実の記録ではありません。「自分はあのとき、こんなにも強く心を動かされていたのだ」という、感情そのものの記録なのです。読み返すことで過去の自分に「わかる、わかる」と共感し、当時の感情を鮮明に思い出せるそう。他者の目に触れることのなかった、真っ直ぐな言葉の数々は、知らず知らずのうちに未来の自分自身へ向けた「かけがえのないタイムカプセル」となっているのです。
「手紙を綴るひととき」は、タイパ社会に宿る「心の充電時間」
あらゆる分野で効率化が進み、特にタイムパフォーマンスが重視される現代において、「誰にも送らない手紙を書く」という行為は一見すると無駄な手間に思えるかもしれません。 しかし、内から溢れる感情を言葉に綴って素直な自分で満たす時間は、ミカミさんにとっては大切な「心の充電時間」となっていたはずです。
職場や人間関係において常に感情のコントロールが求められ、本当は出したい感情をグッと飲み込む。そんな毎日を送るあなたも、ぜひ一度、誰にも宛てない「架空の手紙」を綴ってみてはいかがでしょうか。
そこにはきっと、あなた自身すら忘れていた、最高に純粋で、ほんの少しだけ「キモい」、けれどたまらなく愛おしい……そんな等身大の感情が立ち現れるはずです。



