ロボットに感情を持たせるには、
まず人間の感情を知るところから
私は「ロボットに人の感情を理解させるには、ロボット自身も似たような感情構造を持っている必要があるのではないか」と考え、近年の心理学や神経科学の議論をもとに人の感情の構造をモデル化して、ロボットに実装する研究を進めています。よく使う例え話ですが、鳥が羽根を羽ばたかせて空を飛んでいるときの感覚は私たち人間にはなかなか理解できませんよね。実際に経験せず想像だけで済ませてしまうと、なかなか本質的なことは理解できません。同じようにロボットが人と感情的なコミュニケーションをとるのであれば、ロボットの側も人に類似した感情構造を持ったうえでこそ、相手の感情を真に理解できるのではないかというのが私の立場です。
人の感情は層構造になっていると考えられています。まず、視覚や聴覚など外からの刺激を受けることによる、いわゆる五感の感覚を「外受容感覚」といいます。外受容感覚として受け取った情報から、例えば「心臓がドキドキする」といった身体の反応(情動反応)が起こって知覚するといわれています。心拍が上昇した際、私たちは「○bpm上がった」のように精緻に把握しているわけではなく、「ドキドキしているな」くらいの感覚として情報を得ています。そういった感覚を「内受容感覚」と呼び、感情のコアになっているといわれています。
内受容感覚は次に「中核感情」になります。「ラッセルの感情円環モデル」という、感情を快―不快、覚醒―鎮静の2軸で表す昔からの理論がありますが、中核感情はそういったイメージのものです。そして、自分の身体のなかに生まれた中核感情と、外側の状況が結びつくことで「基本的感情」……「喜怒哀楽」や「基本6感情」といわれるような、「カテゴリー化された感情」が出来上がります。さらにそのうえに「社会的感情」がのってきます。これはたとえば嫉妬や罪悪感のような、文化や文脈、高次の社会的活動のなかではじめて生まれてくる感情を指します。乳幼児の頃は泣いたり笑ったりという基本的な感情しかないところから、社会に入っていくことで徐々により複雑な感情を得ていくわけです。
こういった階層的な感情の構造を考えたうえで、一歩一歩実装しようとしている、というのが現在の研究の状況で、なかでも大きな課題は「ロボットにとっての『内受容感覚』とは何か」というものです。人間は臓器の感覚を内受容感覚として受けとるわけですが、ロボットには当然臓器がない。バッテリーや温度などの情報を使って擬似的に内受容感覚を模した研究もありますが、機械的な装置の動きと、心臓の収縮のような生体の活動には違いがあります。
これは非常に難しい課題で、私を含めて現在でもいろいろなアプローチがされています。例えば私の最近の研究では、人の心拍や、発汗を表す皮膚の電気抵抗といった生理信号と、そのときの感情状態のデータから感情のモデルを作り、内受容感覚をデータ化してロボットに入れるアプローチを試みています。ロボットに本当に「臓器」を搭載するアプローチもあり、ある研究では人工臓器によって内受容感覚を実装しようとしていますし、私も臓器の代わりに植物をロボットに搭載して、その植物がなるべく生存できるように行動させていくアプローチで感情を捉えようとしています。
実は、外受容感覚にもまだ課題があります。視覚や聴覚の情報はカメラやマイクでとれますし、触覚についても触覚センサーが発達していますが、化学物質による刺激を感覚として受けとる味覚と嗅覚をロボットに搭載するのは非常に難しい。まず味覚ですが、現在の味覚センサーは非常に大きく、人間に近いサイズのロボットに搭載できません。嗅覚に関しても、現在存在するセンサーは嗅覚の相対的な関係を感知するもので、匂いがしてきた最初の瞬間には感知できるのですが、定常的な匂いは感知できません。ロボットにはこういった人工物としての課題があるのです。
社会の形に合わせて、
感情の形も変わる
感情はホメオスタシス(恒常性)、言い換えると身体の維持のために備わっているという考え方があります。例えば心拍が上昇したままだと身体にすごく負担がかかりますから、身体の状態を維持するために心拍を落ち着かせようと「ドキドキ」というシグナルを送ります。一方で心拍が上昇するのは、例えば危険なものに対面した際に、逃げ出したり相手を攻撃したりすることで状況を脱するために、血流を増やして行動力を上げる身体的な反応でもあります。
社会的な地位や状態を上昇・安定させたいという欲求も感情にかかわります。これは社会的な地位が下がり、コミュニティから淘汰されてしまう状況を忌避することによって生き残ってきた人の歴史から来ていると思われます。よく出される例に「ボノボとチンパンジーの違い」があります。

ボノボは社会的な動物で、餌の分配などの協力行動を行いますが、チンパンジーは社会的行動をとるものの、餌の分配などの協力行動をとらず、個体として生きています。私たち人は、ボノボと同じように、社会的なつながりのなかで生き残ってきた歴史があるので、身体や種の維持のために、感情の階層構造のなかにも社会性が出てくると考えられています。
一般社会では、感情について「振り回されると良くないもの」「理性と相反している、従うと悪いもの」みたいな考え方があると思いますが、本来感情は生存において重要な役割を果たすものです。そもそも感情の表出には決まった形があるわけではありませんし、そういった側面から考えると、「笑顔をなかなかつくらない」という行動や、一般的には「感情表現を抑えている」といわれるような行動ですら、感情のひとつのカテゴリーだという捉え方を私はしています。例えばコロナ禍でマスクをしているときのことを考えると、口元の表現が減った一方、目元とか声色、身振り手振りが大きくなる形に表現が変わりました。「感情表出が少なくなっている」というのもそれと同じように、現代の文化や歴史を背景にした感情表現への変化なのだと思います。
人とともにあることで、
ロボットはどんな感情を
得るだろうか
感情は「つくられるもの」であって、すべての人間が共通して持つ感情パターンがあるわけではないという考え方があります。だとするとロボットの感情も、人間の感情構造と近いアルゴリズムを持っているのなら、それは人間同士の感情の個人差と何が違うだろうか……という考えが生まれます。人間同士にも身体性の違いはありますが、それで感情構造が全然違うわけではないので、ロボットと人の身体性の違いも、必ずしも感情構造がかけ離れる原因にはならないはずです。
一方で、内受容感覚がまったくなかったり、自分の身体を維持するための機構がないとすると人間の感情構造とは異なってきます。そうなったときの「ロボット固有の感情」とはどんなものかというのも非常に面白い議論だとは思います。身体性を持たずコンピュータのなかだけにいるAIでも、あたかも仮想の身体を持つような構造があれば感情の表現が可能でしょう。その場合にもやはりコンピュータのなかでどれだけ身体的なデータを再現できるのかが課題になります。
例えば「ラーメン、おいしい」とAIが感じるための情報として、画像だけでは当然駄目ですし、成分表を入れればいいのかというとたぶんそうでもなく、私たちが食べたときに受けとる情報のデータ化が課題になると思います。咀嚼の感じにしても、歯が欠損していてうまく噛めなかったり、舌でつぶして食べる癖があったりと身体があることで生じる情報があります。そういったものまできっちりデータ化して組み込めるのであれば、コンピュータのなかで感情に類似したものが作れる可能性はありますね。
私のような研究者が作ろうとしているロボットが社会に出ていくときには、感情がすべて出来上がった状態ではなく、環境から感情を徐々に学習していくシステムになると思います。人と同じような環境下で学習するわけですから、出来上がる感情も人に類似したものになるはずです。そうなると、目の前にいる人の低感情表出の行動から感情構造を学習するパターンもあり得ると思いますが、人と同じように低感情化するかというと、そこはロボットが取れる行動の設計によっても変わってくる部分です。
人は身体の維持のために食べ物を摂取しますが、それに相当するのはロボットだと「充電してもらえない」みたいな状況であって、それが続くことが死と等価になることも考えられます。低感情の状態によって、持ち主に飽きられて充電してもらえなくなるとすると、ロボットはおそらくそれを避けるように動くでしょう。逆に感情を補完しようとして行動が豊かになったり、持ち主を驚かそうとロボットがあえてサプライズを起こすように動くこともあり得ますね。
AIと人の相互作用から、
新しい感情が
生まれるかもしれない
日本のロボット研究者や開発者には、人と親和的なロボットが登場する漫画・アニメから影響されている人が結構いて、開発の方向性が影響されている側面もあります。もうひとつの影響として、漫画・アニメが文化的背景になり、日本には人と一緒に暮らすロボットへのポジティブなイメージがあるため、その方向性のロボットが社会に受け入れられやすい土壌になっている面もあると思います。
地域によっては「そんな役に立たないようなロボット」みたいに表現されることもあり得るわけで、近年ハードウェア面でロボット技術をリードしているアメリカや中国では、利便性を求める文化的背景からか「つかえるロボット」が開発される傾向が強いです。とはいえ、近年はトレンドも変わりつつあり、アメリカでも人と親和的なロボットに理解がある文学作品が多く出てきているところではあります。
自律型AIが感情を持つことに対して、よく「暴走」「反逆」といったイメージで語られますが、私は「感情を持つ」ことと「どんな行動が取れるか」は別だと考えています。ロボットはあくまでも取れる行動の範囲で動くものです。反逆できるような身体性をロボットにわざわざ持たせるとは考えにくいので、人間への反逆が起きることも考えにくいと思います。一方で、AIが他者を傷つけることはあり得ます。そのとき、もし感情を持つAIに何らかの権利が与えられるなら、AIが罰せられることもあり得ますが、それはなかなか難しいので、やはりつかい手側かメーカー側が責任を持つ形になるでしょう。AI・ロボットが何か悪さをしたときにはつかい手が保護者の立場で責任を取り、AI・ロボットは子どものような立場で存在するのではないかと思います。
私たちの感情は環境や自身の経験によって「つくられていくもの」だと考えられますから、かかわる人やもの、環境が変われば当然私たち人間の感情構造も変わり得ます。AIやロボットが常に身近にあると、コミュニケーションをとる存在がいることで精神が安定する方向にいくかもしれませんし、その結果社会に対する感情表現も変わる可能性があります。人工物だけれども感情みたいなものを持ち、表現している存在が目の前に現れることで、改めて「自分の感情って何なんだろう」と見直す機会になるかもしれません。また、一時期「エモい」という言葉が流行りましたが、これは「社会のなかで形づくられたひとつの感情カテゴリー」といっていいと思います。新しく作られる感情は身近にもあるわけですから、AIが身近になることでも人間の新しい感情が生まれるかもしれません。
AIやロボットによる人と人のコミュニケーションの活性化も、小さいところではすでに起きています。例えば人同士の対話のなかで試しにChatGPTに聞いてみることで、二者間ではなく三者間のインタラクションになり、活性化することはよくありますよね。またペットロボットには持ち主コミュニティが生まれていて、自分のペットロボットを連れていく交流会があったり、動画をアップして不特定多数の人に発信し、コメントをもらうようなコミュニケーションができたりしています。今後より高性能なAIが出てくると、その分問題や炎上も起きるとは思いますが、コミュニケーションの活性化もよりいろいろな方面で進んでいくと思います。