静かな環境は、
静かな規範を内面化させる
私たち精神科医が携わる臨床の現場のなかで、「低感情」の傾向にかかわることとしては、うつ病や双極性障害の診断基準が以前と比べて緩くなっていることが挙げられます。これらは「感情障害」「気分障害」とも呼ばれ、まさに「感情のインプット・アウトプット」にかかわる精神疾患です。例えばうつ病なら、昔は「元気がない」といった症状が2ヶ月ほど続かないと診断されませんでしたが、診断基準が改定されるうちに基準が緩くなり、現在は2週間具合が悪かったらうつ病として診断できるようになりました。双極性障害の場合も、以前は誇大妄想を呈するほど激しい状態が「躁」とされていましたが、昨今は「少しテンションが高い」「衝動買いが続いてしまう」くらいのかなりマイルドな症状まで精神疾患として扱い、治療するようになってきました。
臨床の現場で低感情とかかわることのもうひとつは、教育の場で発達障害の診断とスクリーニングが進んだことです。教室で騒がしくしてしまう子や落ち着かない子が非常に早い段階からピックアップされ、特別支援教育のルートに入るようになりました。逆に教室は昔と比べて静かになったので、そこで学んだお子さんたちも静かな規範を内面化していきます。それが今時の若者が非常におとなしく、礼儀正しくなっている理由と考えられます。
また特別支援教育に行った子どもたちも、早い段階から手厚く扱ってもらえますし、向精神薬を用いた対処等も行っているため以前よりは静かになっているでしょう。学校の教室の場合、教室がガヤガヤしていたり誰かが机をガンガン叩いているような環境では、うるさくて勉強に集中できません。静かな教室はより勉強に集中できる、「生産性が高い」空間ということになります。
それは仕事でも同じで、オフィスが静かであること、あまりドタバタしていないことで仕事の生産性をキープできますし、メンタルヘルスを守るうえでも都合がいい。コンプライアンスを守り、正しい姿で企業活動をしていることを示す意味でも都合がいいでしょう。このように、感情表出の場面における低感情が増している背景として、社会全体が「ホワイト」である方向に傾いてきていることが挙げられると思います。
日本のなかでも、特に東京は「静かでなければならない空間」です。東京のような都市にはいろいろな思想信条の人が集まってきますし、人口密度が高過ぎるためお行儀良くしなければいけないニーズがとても高いからです。例えば東京の通勤時間の電車はすごく混んでいますから、多動の人や私語が絶えないうるさい人が同じ車両にいたらストレスですよね。この例が逆に示しているように、今の東京のインフラなり人の動きなりは、私たちが「静かにしている」ことに多くを依っています。今の例なら、通勤電車というインフラは人が静かにしてくれないと成り立たないわけです。
ですから東京ではオフィスや学校だけでなく、実は街全体・インフラ全体が「静かにさせるようなアーキテクチャ」を成している。そこに住む人びとが「静かにせよ」という社会規範を共有しているだけでなく、街自体がそこにいる人に静かであることを求めているので、外国人が混ざってもある程度は空気を読んで、静かでいる規範を守りますし、迷惑にならないように行動します。私はそこに静かにさせる「アーキテクチャの力」、あるいはより内面を支配する「バイオポリティクス(生政治)の力」のようなものを感じます。
低感情化は500年、
または数十万年のトレンド
低感情化は現代に限った現象ではなくて、人間が全体的に低感情になっていく、あるいは行儀良くなっていく「大河のような流れ」が歴史のなかにある……という捉え方をしています。このトレンドは、私が知る限り西洋では16世紀にはじまったものです。当時のヨーロッパでは、それまで王侯貴族や高位の聖職者しか出入りしなかった宮廷にいろんな身分の人が集まるようになったことで、宮廷の礼儀作法が中流階級へと広がりはじめました。そして、それを受けた上流階級の人たちは、差別化のためにそれまで身につけていた礼儀作法を発展させ、ますます穏やかな方向へ洗練させていきました。その洗練された礼儀作法がさらに中流階級に広まって……という流れがその後も繰り返されてきたと考えられます。
また生物学的な面から考えても人類は、精神を安定させるセロトニンが脳内にたくさん出る方向に、かつアドレナリンやコルチゾールなどのストレスホルモン、つまりいざとなったときに臨戦態勢をとるためのホルモンの濃度が少なくなる方向に進化してきました。これはホモ・サピエンスになる以前から数十万年のスパンで起こってきた現象ですが、さらに化石研究によれば、ホモ・サピエンスになってからの何万年の間ですらセロトニンがたくさん出る人間に特徴的な骨格へと変化していることがわかっています。要するに、生物学的にみてもホモ・サピエンスは穏やかになる方向に進化してきたのです。
このように社会学的、生物学的トレンドから考えると、これから先も我々は低感情化していき、もっとお行儀の良い社会規範に馴染んでいく可能性が高いと思われます。社会が低感情化することには、先ほど挙げたようにオフィスや学校での生産性が向上したり、あるいはハラスメントが少なくなったりケンカが少なくなったりと、良い面がたくさんあります。例えば1990年代までは東京でも夜歩くともっとケンカが多かったですが、現在ではだいぶ少なくなっていますね。このように、低感情社会のメリットはおそらくすでに現れてきています。
一方で、みんなが低感情になり、弱い感情生活に慣れてしまった場合、いきなり強い感情をぶつけられたときに私たちはどこまで対処できるのか。例えるなら乱暴者がいない社会になり、対処のメソッドが身についていないところに乱暴者が来たらどうなってしまうのか……ということは低感情化のデメリットとして考えられます。

人間はすでに
「サイボーグ」になっている
低感情化のもうひとつのデメリットとして、感情の自由についても、AIによるものを含む「人工化した感情」で私たちが充足するようにどんどんなっていくことが考えられます。またタレントをはじめとする「感情の生産者」の側も感情のキワを突くのがどんどん上手になっていき、感情の商品化・商業化がさらに進んでいく可能性についても心配しています。実は「感情表出の商品化」は、すでに原始的な形態が社会に現れていると思っています。それは、例えばSNSなどのコミュニケーションにつかわれている「スタンプ」です。絵文字やスタンプは自分の感情を記号化したものですから、私たちはコミュニケーションのためにお金を出して「記号化された感情」を買っているわけです。 また、感情の商品化に関連するトピックとして、失礼な接客をウリにする「暴言カフェ」のようなお店が存在することは、一見低感情の流れに反するように思えるかもしれません。しかし資本主義と商取引の枠組みのなかでお金を払って、安心して強い感情を経験しにいっているわけですから、これは「対価を支払ってサービスやものを提供される」という近代社会のプロトコルをなぞる活動です。その意味で私はむしろ、「既定路線化された感情に回収されている」という近代的な行動だと考えます。
話を戻すと、スタンプやSNSを通じてコミュニケーション上の感情が記号化されたり、地図アプリのおかげで未知の場所でも活動範囲を広げられたりと、今私たちの能力はスマホによって強化されています。生身では絶対できないことがスマホを通してできるようになっているのだから、スマホが普及した時点で「人間はサイボーグなんだ」と私は考えています。
ですから、そこから先は「サイボーグ化がどう加速するのか」や「どんな方向に人間が改造されていくのか」といったことが議論の焦点になるのではないでしょうか。AIに関しても、私はほかの情報技術と同様に「人間のサイボーグ化」の一因子として捉えています。スマホが私たちを「サイボーグ」にしたように、ウェアラブルなサイバネティクスアイテムにAIが搭載されることですごい変化が起こるはずですし、それは人間以上の能力を持つAIを待つまでもなく、より低級なAIでも十分可能です。
例えば外国人と会話するときに、眼鏡のようなウェアラブルな端末に搭載されたAIが相手の喋っていることを翻訳して、視界内に日本語で表示されるようになれば、リアルタイムで外国人と喋れるようになりますよね。それと同じように感情についても、ある程度AIが支援するようになる可能性は大きいと思います。私たち精神科医がかかわる領域の未来を想像すると、例えば感情の読み取りが苦手な特性や症状を持った患者さんの支援として、他人の表情の変化をAIが「これはこういう意味なんだよ」みたいに読み取って教えてくれるようになる。そんな風に言語の翻訳だけでなく、感情のインプット・アウトプットもAIが取り持つように、あるいは介入してくるようになる可能性はあるでしょう。
今後もAIを含めた情報端末はさらに発展・普及していくはずです。現在AIを利用しているのはアーリーマジョリティまでだと思いますが、これがレイトマジョリティやラガード(変化に対して最も保守的な層)まで普及したら絶対におもしろいことが起こるはずなので、興味をもってみています。
「低感情社会はユートピアだ」と
胸を張ろう
昔の男性は感情の表出に無頓着でもよく、より感情の取り扱いが上手い女性がそれをカバーしていた時代がありました。しかし現代は「男性も女性みたいにやってください」、もっと言えば「男女関係なく、感情の入出力を上手くやってください」という時代です。粗雑な感情の表出や感情の読み取りが許されなくなり、性別・ジェンダー関係なく「とにかく感情の入出力は精緻で穏やかであれ」というのが現在のトレンドです。
社会全体の感情表出が穏やかになると、感情表出が強い家庭で育った人は社会規範が内面化するプロセスが混乱してしまいます。それを私は個人的に「21世紀の神経症問題」と呼んでいます。現在ではあまり使用されなくなった言葉ですが、かつての精神医学では、社会規範と「あるがままの自分」の間のギャップが葛藤になり、いろんな症状を呈することを「神経症」といいました。
21世紀に起こっている事象を神経症になぞらえると、静かでホワイトな低感情表出が社会の規範になり、そこから外れた環境で育った人や、そこから外れた生物学的特質を持った人が葛藤することになる。それでも、子どもは事情を飲み込みやすいものですから、あまり苦労せずに新しい社会状況に馴染んでいくのではないでしょうか。大人になってから新しい社会規範についていくのは難儀でしょうが。
「低感情社会」と言っているものは、先ほど説明したようにかなり昔から続いてきた変化の結果です。今の社会は、50~100年前に比べて生産性も高くなったし、キツいことも言われにくくなったし、怒鳴り声におびえていた立場の人たちの諸権利も守られやすくなったはずです。DVや子どもの虐待が摘発の対象になり、社会としてなくそうとしています。そういった変化を寿ぐなら、私たちは低感情の社会について、「これこそがユートピアなんだ」と胸を張って言うべきですよ。「問題はあるかもしれないけれど、この変化がもたらす果実を獲得していこう」と、私はそう考えています。