感情は効率性にとって
余計なノイズ
日本人が感情を表出しなくなっている背景には、「成長期から成熟期へ」という日本社会の大きな変化があり、私は「社会が山頂を目指していた時代から、フラットな高原地帯を歩む時代になった」と表現しています。
社会の高原化を一番敏感に感じているのは若者ですが、現代の若者の社会心理をみていくと、そこには大きく「コスパ・タイパの重視」と「人間関係の重視」という二つの軸があります。これらの軸から考えても、感情を表出しなくなっているという傾向は納得できるものです。「感情を感じなくなっている」のではなく「感情表出を控えている」、そして「感情表出自体が困難になっている」という二つの傾向だと考えられます。まず「コスパ・タイパの重視」という軸について考えると、どこかに目標が設定されているからこそ、そこまで最短距離で行こうとしてコスパ・タイパという発想が生まれます。逆に言えば、ゴールがわからない状況ではこの発想は成立しません。成長期の社会では、「昨日と今日とでは世界は違うものになったし、明日の世界はもっと違うはずだ」と思われていてゴールが見えない状況でしたから、コスパ・タイパのような発想は重視されませんでした。
一方で現代の高原化した社会の若者たちは、私自身は半分錯覚だと思いますが、「未来は現在の延長線上にあり、ゴールが見えている」と感じています。ですから当然そのゴールに最速・最短でたどり着こうとして、効率を求めるようになる。これがコスパ・タイパの感覚です。そして効率を求めようとしたときに、感情の揺らぎや起伏は余計なノイズになるので、感情を出さないことでその負荷を下げようとします。例えばタイパ重視の例としてよく出てくるファスト映画は、ただ「時間がもったいない」というだけでなく、じっくり鑑賞することで生まれる感情の揺らぎが負荷なので、それを抑えようという発想があるのでしょう。同様にポジティブな状況に対しても、社会が右肩上がりなら「今のポジティブが続く」と思えますが、高原化してフラットな社会では「ポジティブなのは今だけで、祭りはいずれ終わってしまう」と先が見えている。落ち着いたときの反動が怖いので、ポジティブな感情になり過ぎないように抑えようとする傾向もあると思います。
大切な人間関係だからこそ
感情を出さない
もうひとつの「人間関係の重視」という軸は、一見「感情を表出しなくなっている」という傾向と矛盾するように思えるかもしれません。しかし逆に、人間関係がとても重要だからこそ、過剰に気を使って感情を表に出さないという現象が起こっているのです。
現代の「人間関係重視」の根底にあるのは「自分の居場所を守ろう」という発想です。そのために、お互いに深入りしないことで感情を逆撫でしない、相手にとっても自分にとっても「優しい関係」をつくろうとするわけです。この戦略は言わば「ぼっちを避ける」ための保険をお互いに掛けあっているような状況で、「大切な人間関係だからこそ、感情を表に出してはいけない」という発想になっているわけです。
このような傾向が広がる背景になっているのは、人間関係の流動化・自由化です。かつての組織制度の影響力が強かった時代には、一人ひとりの構成員の関係性と居場所が組織によって大きく規定されていました。平たく言うと「誰とどのようにつきあうか」が組織・制度によって決められていた割合が大きかったわけですが、これは裏返して考えると「組織によって関係性の安定性が保障されていた」ということでもあります。
だからこそ感情を出してぶつかりあってもいい。同じ組織の中にいるのなら、ケンカしてもどうせまた明日顔を合わせざるを得ないですから。自分たちの気持ち以外にも関係の基盤があるなら、一時的に衝突してもあとで関係修復の機会があるので、それほど怖くないのです。一方で、日本では後期近代に入った2000年頃から現在に至るまで、組織制度の弱体化に伴う人間関係の自由化が進んでいます。そのような環境では、お互いの関係を保つ基盤はお互いの気持ちだけですから、嫌だったらもう一緒にならないで済みます。そうなると、この瞬間に衝突してしまうとそれで関係が終わってしまい、明日はもうないかもしれません。この恐怖感があるために、「人間関係が自由になった結果、自分の感情を表出できない」という状況が生まれ、相手の感情を読みとるセンサーは研ぎ澄まされ、鋭敏になったセンサーに抵触しないようにお互い一生懸命に気をつかいあうようになっている。これはおそらく近代化以降はじめての経験だと思います。
このようにリアルの人間関係でつながっている人に感情を出すことがリスクになると、日常を共有していない相手の方が逆に安心して感情を出せるという状況が生まれます。例えば新宿歌舞伎町のトー横にやってくる若者は、もちろん身の危険はあるわけですが、そこではお互い日常生活を共有していない人と出会えるから本音を出せる。この「知らない人だから親密性を持ち得る」という関係を、ポケベルなどの情報メディア研究で有名な社会学者の富田英典さんはかつて「インティメイト・ストレンジャー(親密な見知らぬ人)」という言葉で表現していました。

インターネットが促進する
「大都市化」と「安心社会化」
感情を表出しなくなる傾向は、インターネット・SNSによっても強化されます。黎明期の社会学者であるゲオルク・ジンメルの議論に、「大都市で生活すると情報を切り捨てるようになり、他人と距離を置き、感情移入をしないようになる」というものがあります。他人をいわば「データ」としてみるようにならないと、情報過多な大都市では生き抜いていけないわけです。インターネットによってより情報過多になったことで、社会全体がジンメルのいう「大都市化」しつつあることは、感情的に反応して感情を表出するような機会を減らそうとする傾向にも影響しているでしょう。 また、SNSが普及したことで「他人とつながっていない時間」を持ちづらくなっています。その結果、お互いがブラックボックスを持ったうえで 「信頼」しあうという関係が崩れていき、一方でお互いに何をつぶやき、何をみているかが可視化され、それを確認しあうことで得られる「安心」が関係の基盤になっています。人同士が信頼関係で結びついている「信頼社会」と、長期的な相互依存によって逸脱した行動を抑える 「安心社会」のふたつに社会を分類すると、SNSの発達は信頼社会の基盤を崩し、安心社会化を促進するのです。
一神教の文化で育った欧米人は「唯一神からの承認さえあれば、周りの人からの承認はさほど重要ではない」と思えるため、個人主義が強くなりますが、絶対神を持たない日本人は、世間や周りからの承認によって自分を支えています。世間はまさに「安心のシステム」ですし、若い世代ではX(旧・Twitter)やInstagramのような「全世界に開かれたもの」という建て付けのSNSでも、仲間内での情報共有を目的にして、鍵をかけてLINEと同じようなつかい方をしています。日本は元々安心社会としての面が強かったのですが、SNSはその傾向をさらに強めていると思います。
推しは「神」だから
安心して感情を出せる
現代にも安心して感情を出せる先があります。それは「推し」です。推し活をしている人たちもほかの場面では感情を出しませんが、その分、推しに向かって集中して感情を出している。現代の推し活とは、「安心して感情表出ができる場所と対象を探し、そこに集中している」ということだと思います。ひと昔前の推し活は「自分たちが推すことで対象を人気者にする」という感覚で、推す対象のアイドルとファンは「フラット」な関係でした。しかし、今の「推し」はその頃とは大きく違い、例えばSNSで「推しは神」みたいな投稿が見られるように絶対的で超越的な存在になっています。神様は対等な存在ではないので一方通行で感情をぶつけることができるし、一方的に拠り所にもできる。だからこそ安心して推せるのです。
感情は、当人のなかである意味での絶対性と安定性を持っています。「感じること」自体は否定されようがないため、自分の絶対的な拠り所になり得る。それに対して論理は、価値が相対的な社会においては「こっちから見れば善だけど、こっちから見れば悪だよね」というようにひっくり返ってしまうものですから、安心の基盤にはなりにくい。グローバル化する現代社会のなかで感情の共有に根ざした民族主義が勃興していたり、ナショナリズムが高まっていたりするのもその表れのひとつだと思います。
一方、価値観が同じなら安心できるかというと、価値観もひとりの人間のなかで変わってしまうものですから安心の基盤になりません。しかし感じ方は「持って生まれた特性や性質に根ざしているので、変わらない」と思われやすいため安心できる。地元のつながりを大切にするのと同じ感覚です。「『つくられた』論理ではなくて、『生まれ持った』感性は絶対に揺らがないから、そこで共感できる相手は安心できる」という感覚が、現代のつながりの基本になってきているように思います。
フラットな社会で
不安を引き受け、
ノイズを保って生きていく
低感情表出は、昔は不自由だった人間関係や生き方が自由になってきたことに付随して起きている現象ですから、それ自体をネガティブに捉える必要はないのではないでしょうか。現代の若者は、自由に感情表出できないことに生きづらさを感じているかもしれませんが、その生きづらさのかたちは、昔我々の世代が感じていたものとは大きく違います。例えば、ここ数年問題になっている闇バイトの背後には「人間関係が自由化したことによる孤立」があります。若者の問題行動は、昔の「中高生の非行」に代表される「不満に根ざしたもの」から「不安に根ざしたもの」に変わってきているのです。
これを「良い」とは言いませんけれども、自由を手に入れたことで「不満」が減り、その代わりに自由を引き受けることから来る「不安」が表れている状況は必然でもあって、自由の二面性として受け入れていくことも必要だと思います。もっとも、それは「不安」を肯定するという意味ではなく、その「不安」を自由と両立させながらいかに解消していくかという問題として捉えていかねばならないということです。
社会が高原化しているとはいえ、先ほど「『ゴールが見えている』というのは半分錯覚だ」と言ったように、今の社会状況がずっと変わらないまま続いていくという保証はどこにもありません。例えば、かつて地球の王者だった恐竜は、当時の環境に最適化し過ぎたがゆえに、隕石が落下したことで起こった地球の環境の変化に適応できず滅んでしまいました。そして、それ以前の環境ではあまり最適化していなかった哺乳類が生き延び、繁栄していったわけです。同じように、現在の社会環境に最適化し過ぎてしまうと遊び・余白の部分がなくなり、もし社会が変わったときに乗り遅れてしまったり、ついていけなくなったりします。
だとすれば、高原化し、感情を表出しなくなった現代社会を生きていくうえでの補助線として、実は現在の社会をどこか俯瞰する第三者の視点を持ち、今の環境に最適化し過ぎず、どこかに余分なものや「ノイズ」のようなものを残しておいた方が良いのではないでしょうか。それに、そもそも予定調和だけの人生なんてつまらないじゃないですか。意図しない反応や傷つく経験がないと、人生の本当の豊かさは味わえないと思います。