第34回
「不寛容社会」に対するみらいのめ
from 京都府
なんだか最近、世の中がやさしくないような気がしませんか。
コンビニの店員さんへの暴言、幼稚園の子供の声に対するクレーム、大小硬軟さまざまな謝罪会見、年末には「除夜の鐘がうるさい」というクレームで鐘を突くことが出来なくなってしまったお寺のニュースも流れていました。それぞれ事情があるのでしょうし、よく知りもしないで、あれもこれも一緒くたに論じるのは乱暴なのですが、「ぼくたちの生活は、前からこんなにも不寛容で不機嫌だったっけ?」という漠然とした窮屈さを感じています。白黒ハッキリさせたい!ハッキリさせることこそ正義!という感覚が、薄い膜となって世の中を覆っているように感じるのです。
「不寛容社会」というキーワードで検索してみたら、2016年にはすでにNHKスペシャルでそうした特集が組まれているし、2017年にはそのものズバリ「不寛容社会 ~『腹立つ日本人』の研究~(ワニブックスPLUS新書)」という本が出版されていました。ということは、けっこう同じように感じている人は多いと言えそうです。でも、「なんだかなぁ」と感じている人が多くいたとしても、不寛容傾向は全然改善されていないようです。むしろ悪化してるような気が…。
番組や本ではその原因として、「日本社会の“同質性”が高いことによって生じる強い同調圧力」や、「ネット社会の“匿名性”が極端な主張を発信しやすくしている。それを繰り返しているうちにクレーマー的な精神構造が身についてしまっている危険性」といったことが指摘されていたようです。ネットにおける誹謗中傷や他者を攻撃する、いわゆる「ネット住民の語り口」は、もはやそれに目くじらを立てるのがかえって恥ずかしいほど、ある種の日常的な話法(?)の一つとして生活に定着してしまったようにも感じます
たしかにそれらも大きな原因だと、ぼくも思います。でも、最近の不寛容さがますます増していることには、同質性や匿名性よりもっと今日的な原因があるように思うのです。
それはテクノロジー、特にデータマーケティング的なテクノロジーの進化と関係があるのではないでしょうか?
テクノロジーは「perfect(完璧)」を理想とする思考とめっぽう相性がいい。なので、テクノロジーの進化による効率性の追求はどんどん進んでいきます。非効率の完全な排除、全自動化への限りない挑戦こそが未来だとされています。それ自体は全然反対じゃないのですが、でも…、その影響を受けて「非効率を毛嫌いする感覚」が普通になり過ぎるのは、不寛容社会の遠因になるような気がするのです。世界も人もいまさら確認するまでもなくどうしようもなくVUCA(変動性・不確実性・複雑性・曖昧性)なものなので、「perfect」を目指すこととは、すなわち非自然的・非人間的な状態を目指すということと等しいという側面があります。だからといって「perfect」の追求をやめるべきということではないのですが、それ一辺倒にならない「ゆるさ」も大切かなぁ、と。
つまり、テクノロジーの進化によって増長した“完璧志向”が、世の中の「不寛容社会」化に拍車をかけている。未来を考える時、そんな警戒感をチラッと持っておきたい。そう思っています。
…と、ずいぶんコッテリ不寛容社会について書いてしまいました。これじゃあなんだか、「気を付けないと暗い未来が来るぞ!」という話みたいですね。
実は、大事なのはここからです。
京都大学の名物教授だった森毅さんは、受験制度についてこう言っていました。「全能力を適正に評価できる制度がもし仮にあったとして、それで落とされたら洒落にならん」
…ですよね。ましてや、学力テストの合格・不合格じゃなく生き方そのものが評価されるとしたら…。
中国の社会信用システムが本当にそれを可能にしつつある現実を見て、森教授の言葉がリアルな警告として響きます。
現実が深刻になってきたせいか、森教授のような感覚を持つような人が増えて来たように思います。
シンガーソングライター高橋優さんの『素晴らしき日常』という歌にこんなフレーズがあります。(2010年リリース)
「完璧なものだけを欲しがっていった始末に 完璧じゃない人間を遠ざける人々」
リリースから10年経ち、不寛容・不機嫌な状態が当たり前になりつつある今、また沁みるものがあります。
そして昨年、
『京大的アホがなぜ必要か ~カオスな世界の生存戦略~(集英社新書)』
『京大変人講座(三笠書房)』
というヘンテコな名前の2冊の本が意外なヒット(失礼!)となりました。
ぼくは、ここに大いに「みらいのめ」を感じるのです。
「選択と集中」に警告を発し、非効率・無駄・矛盾・不便益(「便益がない」ではなく「不便のもたらす益」)に何かを感じてしまうおもろいアホ(褒め言葉笑)や変人たちに光を当てるこれらの本の内容に「みらいの目」を感じます。
が、それ以上にこんな本が「売れた」ということに、「みらいの芽」を感じています。
ぼくらが不寛容社会を越え、変人許容社会に進化できる兆しかもしれない。そんな風に感じているのです。(ちなみに、「変人」も京大では褒め言葉です)