第18回
パワースポットで「道」を想う
from 福岡県
いきなりで恐縮だが、昨年は心も身体も疲労が積み重なり、いわゆる“いまいち“な年だった。
新しいことにもいくつか挑戦したが、その多くが中途半端、不発、空振りに終わった。
こんなことではいけない、なんとかパワーを充填しなければと、1月の第2週に博多と小倉の中間地点にある宗像大社(むなかたたいしゃ)にお参りに行ってきた。
パワースポットに行ってきた
宗像大社といえば、さまざまな経緯を経て昨年7月、他の関連する資産と共に世界遺産への登録が決定したこともあり、その存在をご存じの方も多いかと思う。日本各地に七千余ある宗像神社、厳島神社、 および宗像三女神を祀る神社の総本社である。
宗像大社は天照大神の三柱の御子神(女神)をお祀りしている。
長女神は、玄界灘の真っ只中に浮かぶ女人禁制の孤島、沖ノ島に鎮座する沖津宮(おきつみや)の、次女神は朝鮮半島の釜山と沖ノ島の延長線上にあり、七夕伝説発祥の地とも言われる筑前大島の中津宮(なかつみや)の、そして末女神は釜山からの延長線の到達点、本土宗像の地に鎮まる辺津宮(へつみや)の、それぞれの宮の御祭神である。
「宗像大社」とは正確にはこの三宮の総称を意味するらしいが、私が今回参拝した本土にある辺津宮を指してそう言うことも多い。辺津宮は長女神、次女神の御分霊もお祀りしている。
調べたところ、宗像三女神は古代から「道主貴(みちぬしのむち)」すなわち「道の最高神」として篤い信仰を集めてきたらしい。
三つの宮が中国大陸、朝鮮半島と日本を繋ぐ海上路にあり、海上交通安全の神威にちなみ信仰されてきたようだ。現在では海上に限らず、道主貴の名のもとに陸上交通安全の、そして武芸、芸術、商売、学業等あらゆる「道」の神として崇敬されている。
1月半ばの週末ということで、初詣も含め、宗像大社は多くの参拝客で賑わっていた。
参道をまっすぐに進み、神門をくぐると、あっけないほどすぐに本殿に辿りつく。国の重要文化財にも指定されている拝殿で手を合わせた。
だが、宗像大社参拝のクライマックスはこの後にある。
拝殿の裏の鎮守の杜の道と言われる参道、その先にある鳥居をくぐり、背の高い木々に見守られるようにしばらく進む。少し息を切らしながら119段の石積の階段を登りきった先に、宗像大社最大の、そして九州でも屈指のパワースポット「高宮祭場」がある。
高宮祭場は、天照大神から「歴代天皇のまつりごとを助け、丁重な 祭祀を受けられよ」との神勅を受けた宗像三女神が降臨した地として伝わる。
全国でも数少ない、間近で直接見ることができるこの古代祭場には、既に数組の参拝客がいたが、得体の知れない力に圧倒されているかのように誰もが口を閉ざし、石で囲まれた祭場と不思議な曲線を描いて祭場を覆うように立つ樹木を見つめていた。
参拝の列に加わり、順番を待ち、長い時間をかけて手を合わせた。
すると……急に風がうねり始め、何か凄い気のようなものが押し寄せ、びりびりとエネルギーが体内に取り込まれていく感覚に襲われ……みたいなことは残念ながら全くなかった。
周りの参拝客に遠慮しながらスマホのカメラで何枚か写真を撮り、「やはり自分には霊感的なものが皆無なのかな」と心の中で呟きながら帰路についた。
階段を下り、砂利が敷き詰められた道をとぼとぼとしばらく歩いた。ふと、後ろ髪を引かれた気がして足を止めた。
今通って来た道を振り返ったまさにその時……何もおこらなかった。
ただ、「今日は何も感じられなかったけど来てよかった」そして「自分はこの先何度か、この道を通って祭場に行き、同じ道を帰って来るのだろうな」という予感のような、希望のような想いが急に湧き出てきたのは確かだ。
すると、不思議なことに心が少し軽くなり、あのアントニオ猪木氏の有名な言葉が唐突に、鮮明に蘇ってきた。
「道」というものを想ってみた
『この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし。踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。迷わず行けよ。行けばわかるさ』(アントニオ猪木の名言の一つ。だが、一休宗純禅師の言葉という説もある)
「道」という字は、「首」と「しんにょう」という組み合わせでできている。「首」が入っているためか「道」という字の成り立ちにはホラーめいたものも含め様々な説があるようだ。
その中で、「首というのは人間を指し、しんにょうは止まると行くという字の組み合わせでできている。よって道というのは人間が行きつ戻りつするところだという意味」であり、さらにその意味から発展して、「道とは人間が何度も同じことを反復することによって得る最高のものをあらわす」という説がある。
だが、江戸時代の思想家、伊藤仁斎はもっとシンプルに「道とは人々が往来するところである」と考えた。
反復によって何か観念的なものを得る、極める、悟ることが「道」なのではなく、人が往来することで草地が踏み固められ、轍ができ、袖が触れ合って縁が生まれる、つまり「人が行き交う、その事実、実践、行動こそが道なのだ」ということだろう。
そして、この「人の行き交い」はアントニオ猪木氏の言う「踏み出す一足」と同じ意味なのだと思う。
猪木氏の長い顔を思い浮かべつつ参道を歩きながら、氏が何年も前に発した言葉の重みを改めて噛みしめていた。
成長から成熟に移行したと言われて久しい今の時代、それでも、或いはそれ故に、多くのモノやコトがより高度に、より複雑に、より難解に、を目指しているような気がする。
そして、それを追求する過程で直面する迷いや恐れや挫折や後悔を乗り越えるために、さらに高度なことに挑み続けなければならない、という隘路にはまりこんで立ち往生してしまっているケースがかなり多いのではないだろうか。
だが、このようなときこそ、「とりあえず一足を踏み出してみよう」「誰かと袖触れ合ってみよう」という、軽くて軟らかくて単純だけれど、確かな行動が求められるのかもしれない。
駐車場脇に立つ鳥居の下で振り返り、神域に向けて深く一礼した。
レンタカーを発車させる頃には、超ポジティブな想いが暴走していた。
「昨年やって不発に終わった数々のことも、踏み出した貴重な一足だったに違いない」
「何百、何千足か踏み出せば、いつの日か未来を発明するのもきっと夢じゃない」
道の最高神を祀る宗像大社、そして高宮祭場はやはり、とてつもないパワースポットだった。